他の先進国では全国民的な政治課題
断片的主張に惑わず、多数決で決定をあらゆる法制は手段にすぎず、価値を持つのは「人々の生活をより良くする」という目的の方だ。著作権保護も、それ自体に価値があるのではなく、「誰にどんな特権を与えることが国民全体にとって良いのか」という観点から、国民全体が考えるべきだ。
特に著作権という分野は、「民主主義の学校」とも言われる。その理由は、(1)パソコン・インターネットなど創作手段・利用手段の爆発的普及により、著作権に関係する人々が「一部業界のプロ」から「国民全体」に拡大したこと (2)著作権については、権利者・利用者の間に常に「宿命的な対立構造」が存在していること、の二つだ。
他の先進諸国では、著作権は既に、税制や年金制度などと同じ全国民を巻き込む政治的課題になっており、個々の政治家たちも、特権付与の対象や範囲について、態度を明確にせざるを得なくなっている。全国民に関係する利害調整は、官僚ではなく政治家の仕事だからだ。
日本においても(1)すべての国民が自分の問題として意見を持つこと (2)すべての国会議員が立場を明確にし、国会での議論と多数決で著作権法制を決定していくことが、急務となっている。
また、日本の著作権法は内外無差別という方針を頑なに守ってきたが、国内問題と国際問題を分けて考えるべき時期に来ている。
著作権を弱めようとする主張には「条約違反になる」との反論があるが、実は著作権関係条約は、外国の著作物等の保護だけを義務付けており、自国の著作物等を国内で保護する義務はない。
極端に言えば、自国の著作物の著作権を全廃しても、条約違反にはならないのだ。したがって、日本の著作物等の国内保護については、国民全体がゼロから議論し直してもいいのである。
他方で、外国の著作物等の保護については、コンテンツ貿易の状況を、将来予測も含めて考える必要がある。
特に保護期間については「相互主義」が国際ルールとされているので、欧米諸国が保護期間を延長している今日、保護期間の短い日本から輸出されているコンテンツの利権者は、欧米では不利に扱われている(その分、輸入コンテンツの国内利用者は有利になっている)。
保護期間を延長すると、輸出コンテンツの利権者は有利になるが、輸入コンテンツの国内利用者は不利になる。これは貿易問題であり、コメの輸入、自動車の輸出と、自由貿易の関係と同じなのだ。
米国は、著作権保護の水準は先進諸国中最も低いが、「米国で多く作られているものは外国でコピーできず、外国で作られているものは米国でコピーできるようにする」という単純で明確な戦略を貫いてきた。
日本の国民・政治家も、断片的な主張や倫理問題へのすり替えなどに惑わされず、日本人全体にとって何が良いのかを一人一人が真剣に考え、憲法ルール(多数決)で法制を決めていくべきだ。
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