廉価版DVDよりもっと大きな戦いが進行している
著作権の保護期間が脚光を浴びている。きっかけになったのは、オードリー・ヘップバーンの名作「ローマの休日」などの廉価版DVDの販売が許されるか、裁判で争われた事件。去る七月一一日、東京地裁は「ローマの休日」の著作権の保護期間は切れているので、DVDの販売は誰でも自由にできるという決定を下した(上級審で係争中)。
映画・音楽・小説などの著作権には法律で決められた期間がある。保護期間中は権利者の許可なく、作品をDVD化したりその他勝手に利用はできない。他方、期間が終われば原則として誰でも自由に作品を利用できる。これを「パブリックドメイン」という。昨年、「星の王子さま」(原題:Le Petite Prince)の保護期間が切れたことをきっかけに、出版界が新訳刊行ラッシュに湧いたのは記憶にあたらしい。
映画の保護期間は従来ほかの著作物より短めで、公表から五〇年間だったものが二年前に七〇年間に延長された。ここで問題になったのが「ローマの休日」など一九五三年に公表された作品で、期間延長に「乗り遅れて」二〇〇三年末で保護が終わったのか、が裁判の争点だった。裁判所の答は「イエス」。つまり、「ローマの休日」は著作権の保護が終わっているので誰でもDVDにして売るのは自由、と判断した。
現在、書店に行けば五〇〇円程度で洋画の廉価版DVDがずらりと並んで売られている。チャップリン、「第三の男」から「風と共に去りぬ」まで、そのほとんどは五三年以前に公開された映画だ。もっとも、著作物の中でも映画は、さまざまな例外規定や経過規定が複雑にからみ合う。そのため、実は、現在廉価版で売られている映画が全部「著作権切れ」とは断定できない。今後映画会社などから大量提訴もあり得るところではある。
しかし保護期間をめぐっては、廉価版DVDの陰で、もっと大きな戦いが進行している。それが、映画ばかりでない、全著作物の「期間一律二〇年延長問題」だ。
きっかけは例によって外圧である。かつて著作権の保護期間は短く、世界最初の著作権法が誕生したときは、公表からわずか一四年から二八年しかなかった。それが歴史とともに延長をくり返され、最近では「著作者(クリエイター)の生前全期間と死後五〇年間」というのが世界的なスタンダードとなっていた。
ところが、欧米では九〇年代にさらに著作権の保護期間を一律二〇年延長した。つまり、今や先進国で日本だけが死後五〇年の原則を守っていることになる。そして、アメリカは、有名な「年次改革要望書」で一貫して日本にも保護期間の延長を要求しつづけ、日本もついに昨年、二〇〇七年中に結論を出すことを約束させられた。
アメリカでは「著作権が終わらない時代」に突入
アメリカではこれ以前、七八年にそれまでの保護期間を一九年間延長している。そして、その二〇年後の九八年にはまた一律で二〇年間延長した。つまり、最近は二〇年ごとに二〇年のペースで、保護期間を延長していることになる。これは何を意味するかといえば、アメリカでは事実上「著作権は終わらない時代」がはじまっているということだ。
そして欧米は、日本をはじめ世界の他の国も保護期間を同じように延長することを望んでいる。なぜか。文化は彼らの重要な「輸出品」だからである。著作権の扱いは輸出先の現地の法律によるので、日本が法律を変えないかぎり、欧米の作品は日本では原則死後五〇年で著作権が消滅する。
知ってのとおり、映画や音楽といったエンタテインメント産業は、いまやITと並ぶアメリカ最大の輸出産業である。滝山晋氏によれば、九七年度アメリカの「著作権産業」の輸出額は六六八・五億ドル(約八兆一〇〇〇億円)に達し、全産業中でトップであった。関連産業への波及効果はさらに大きいだろう。それを支えるのが著作権だ。パブリックドメインになれば、作品からの巨額な権利収入は入ってこない。だから、欧米が保護期間を延長しつづけ、他国にもそれと同調するよう求めることは、自国の利益を考えれば当然ともいえる。
日本はこの二〇年の延長について、来年中に結論を出すことを約束したのであるが、これは決して軽々に結論を出してよい問題ではない。あるいは、我々の文化や社会のゆくえ、さらに政府の唱える「知財立国」の帰趨を決定する天王山になるかもしれない。欧米主導の期間延長路線に追随するのか、別な著作権のあり方を世界に発信できるのか、日本はよほど慎重にとるべき道を考えた方がよい。
我々はなにを失うのか?―――死蔵作品の増加
それでは、保護期間が延長されることで我々は何を失うおそれがあるのか。二つのことが危惧される。
その第一は死蔵作品の増加である。文学であれ音楽であれ、多くの作品は残念ながら市場でそう長生きはできない。五〇年後にも経済価値を維持できる作品は全体のほんの二%であるという指摘もある。
こうした指摘を裏づける報道が、かつて朝日新聞でされたことがある。死後三〇年から五〇年程たつ作家を三六〇名ピックアップして、その著作の絶版率を調べたのだ。すると、今でもほとんどの作品が刊行中である作家は六〇名に過ぎず、逆に九七名が「入手可能作ゼロ」という結果がでた。あの「三太郎の日記」も「君の名は」も絶版である。つまり、著作権は続いているにもかかわらず、作品が市場から消え去っている作家が大半だという結果だ。しかも、この三六〇名はおもに戦前戦後を代表するような著名な作家たちである。同時期に活動したプロの文筆家、研究者などを合計すれば優にこれに一〇倍するだろう。二%の「生存率」という数字もあながち誇張とは思えなくなる。
こうした作品がなぜ絶版かといえば、営利企業が出版を続けるだけの売上が見込めないためだろう。作品が売られなければ印税も何もない。経済という面だけからいえば、いくら著作権があっても「宝の持ちぐされ」とも言える。
では、絶版作品には文学的価値も学術的価値もないのかといえば、おそらくそうではない。宮沢賢治やゴッホなど、埋もれていた作品の評価が死後に高まったケースなどいくらでもある。また、営利企業が事業性を見出せないから作品は死蔵されるほかないのかといえば、これも違う。後世の作家・研究者による発掘、復活上演、シネマテークでの保存・上映。営利事業以外で作品を紹介する活動は多い。こうした活動の代表例が「青空文庫」だろう。インターネット電子図書館として著名だ。著作権の保護が切れた作品などを対象に、登録ボランティアによる手入力で、すでに七月時点で五八〇〇作品以上が収録されているという。
皮肉なことに、こうした非営利セクターでの保存・紹介活動にとってネックは著作権だ。なにせ著作権は原則として「相続人全員の共有」である。死後五〇年ともなると、相続が二代に及んで一〇名以上で共有というケースも少なくない。その全員の同意がなければ、作品は利用できないのだ(集中管理が進んだ音楽は、例外)。なかには音信不通の者もいるだろう。全てと連絡をとり、使用料を交渉して許可をもらうことも、たとえば超人気作の映画化というならやりもする。しかし、先に挙げた非営利セクターではそんな権利処理はほとんど不可能だ。作品は死蔵されるのである。
延長によってその死蔵期間が更に二〇年延びる。その間、社会は作品と「再会」することができない。その間に忘却の淵に消えてしまう作品もあるだろう。美術作品や音源・フィルムの場合、事態はもっと深刻だ。カビ、傷、紛失によって、作品は永久に地上から失われるかもしれないのである。それはクリエイターにとって幸福なことだろうか。
仮に、賢治の作品がまったく歴史の闇の中に消え去っていたらどうなっただろう。「銀河鉄道の夜」や「ポラーノの広場」などの珠玉の作品は、我々の社会から永遠に失われる。賢治の影響下で生まれた数々の作品も忽然と消える。この連想は、筆者をほとんど慄然とさせるのである。
分断される「創造のサイクル」
被害を受ける可能性があるもうひとつのものは、創造のサイクルである。古来、古い作品は常に新しい作品のための創造の源泉だった。浄瑠璃から移植された歌舞伎の「丸本物」、歌舞伎から移植された大円朝の落語、落語から映画、映画からマンガ、マンガがアニメ化と、古い作品に基づいて作られた作品は枚挙に暇がない。
好例がシェイクスピアである。そっくりと言ってよい原作が存在した「ロミオとジュリエット」を皮切りに、彼の作品にはほとんど種本が存在すると言われる。しかしシェイクスピアは単なる剽窃家ではなかった。どの作品も彼が手を加えると見違えるほどの輝きを放つ。つまり「翻案の天才」だった。もしも、シェイクスピアの時代に著作権が死後七〇年も厳格に守られていたら、彼の作品の大半は誕生しなかった可能性がある。日本が生んだ偉大な監督黒澤明はどうか。当のシェイクスピアに拠った「蜘蛛巣城」「乱」をはじめ、芥川、ゴーリキなど既存の作品に基づいて幾多の傑作を生みだした。
最近、ホルストの「ジュピター」を平原綾香がカバーして大ヒットさせたが、パブリックドメインの作品からポップスの名曲が生まれた例は多い。バッハからはサラ・ヴォーン歌う「ラバーズ・コンチェルト」が生まれ、パッヘルベルのカノンからは八〇年代サブカルチャーを象徴する戸川純の「蛹化の女」が生まれた。ミュージカルの二大傑作、「レ・ミゼラブル」と「オペラ座の怪人」はともに著作権の切れた有名小説の脚色だ。
文化はしばしば「土壌」になぞらえられる。文化の土壌から新しい作品という芽がでて、ときに大樹に育つ。やがて、木は土に帰り、そこからまた新しい作品が生まれるという意味だろう。仮に著作権の保護期間が際限なく延長されれば、この創造をめぐるサイクルは絶たれないだろうか。
こう書くと、「では著作権なんかそもそもない方がいいではないか」と言われそうである。確かに、ここまで書いたことだけを見れば、著作権などない方が面倒はないかもしれない。もともと表現活動は自由なはずである。
ではなぜ、著作権は守られるべきなのか。理由はいくつもあるが、クリエイターへの「インセンティブ」がよく中心に据えられる。つまり、優れた作品を創作しても、著作権がなければすぐに海賊版が売り出されたり盗作されたりして、収入と名誉を奪われてしまう。これでは表現者は生きていくことができないし、創作へのインセンティブが細る。そこで、クリエイターが「作品で食べていく」ために、一定期間、作品の独占利用権を認める。このように著作権をとらえる考え方である。
そして、この独占の期間を「クリエイターの生前全期間と死後五〇年間」とし、その後は作品を「文化の土壌」に返してやる。これが従来のバランスラインであった。保護期間延長に反対する意見は、期間を際限なく延ばしてしまっては、このバランスが崩れ、既存作品が守られるばかりで新しい作品が育たないことを心配するのだ。
しかも、「保護期間切れ」は作品の「死」を意味するわけではない。先にのべた「星の王子さま」がよい例だ。作品が「文化の土壌」に帰ることが業界にとってあらたなビジネスチャンスを生み、あらたな読者を生むこともある。
どちらがクリエイターの利益か
無論、保護期間の延長に賛成する側にも言い分はある。第一に、「保護期間を延長することで創作へのインセンティブが更に高まる」。 果たして、そうだろうか。
すでに著作権はクリエイターの生きている間、更にその死後五〇年保護されているのである。権利が自分の死後五〇年守られるか、七〇年守られるかで、創作へのインセンティブが高まるということはあるだろうか。筆者は仕事柄、様々なジャンルのクリエイターからの相談も多いが、知る限りではそんなに遠い未来のことが創作のネックになっている人はいない。
これ以上期間が延長されても、得をするのはクリエイター本人ではあるまい。死後五〇年から七〇年といえば彼らの孫からひ孫の世代だ。保護期間が延長されて利益を得るのはこうした子孫たち、あるいは古い作品の権利収入で食べている団体だろう。少なくとも、表現者本人のインセンティブとのつながりはかなり間接的であるように思える。
期間延長の第二の理由は、「日本が保護期間を延ばさないと、日本の権利者が海外で利益を得る機会が奪われる」というものだ。どうも「知財立国」と結びつく議論らしい。
ヨーロッパは「相互主義」という原則をとっている。日本が死後七〇年に同調しない場合、日本の作品はヨーロッパでも死後五〇年しか守られない(アメリカは違う)。だから、日本も保護を延ばさないと、日本作品がヨーロッパで早く保護期間が終わってしまって、権利収入を得る機会が減るというのだ。
しかし、それは逆だろう。現在、保護期間の延長が問題になっているのはおもに二〇世紀前半の作品である。すぐに影響を受けそうな作家は、欧米ならば、「SFの父」ウェルズ、「ターザン」を生んだバロウズ、マティス、ユトリロ、「くまのプーさん」のミルン、ディオール、フランク・ロイド・ライト、ヘミングウェイ、「ナルニア物語」のルイスなどなど。いずれも日本でも高い人気を誇る。同時期の日本の作家は横山大観、永井荷風、吉川英治ら。その表現において見劣りするとはまったく思わないが、文化の貿易収支だけ見れば、残念ながら日本はかなりの「輸入超過」であろう。悪くすると、「プーさん」一作品が日本で稼ぐ莫大なキャラクター収入に満たないかもしれない。
同時代でも黒澤や溝口健二といった映画監督は例外かもしれないが、映画の著作権については、「公表後七〇年」という文化庁のある種妙味のある改正で、すでに対応済みである。どうも、保護期間をすぐに延長すると「知財収支」の赤字幅はむしろ広がりそうだ。
確かに、スタジオジブリや村上春樹の作品などは海外でも人気が高い。しかし、ジブリ作品は映画なのですでに「二〇年延長」は済んでいるし、村上作品の保護期間が切れるのは現状でも五〇年以上先である。いや失礼、きっと一〇〇年以上先だろう。期間延長を急ぐ理由には、さすがになるまい。
それだけではない。「知財立国」を言うなら、期間延長は当座の印税収入などよりはるかに致命的な影響をもたらすかもしれない。
海外の作品やキャラクターを、日本のエンタテインメント企業やクリエイターがたとえばDVD化したり、コミック化、その他商品化するとする。この場合、権利者と結ぶのが「ライセンス契約」だ。国際ライセンス契約には日本側に一方的に不利な内容のものが珍しくない。その典型が「アサインバック」という条文だろう。何かといえば、欧米の作品やキャラクターに基づいて日本側で新しい作品を作ったときに、著作権は全部無償で権利者が吸い上げる約束のことである。作品の日本語訳にもしばしば見られる。
クリエイターの才気があふれるコミックや新デザイン、作品の魅力を引き出す翻訳も、自動的に欧米の権利者の知的財産となる。「クリエイティビティの搾取」と呼べば言いすぎかもしれない。しかし、こうした一方的な条件を変えていかないかぎり、「知財立国」といっても前途は多難ではあるまいか。
アサインバックをはじめ一方的な条件が通るのも基本キャラクターや基本デザインの著作権が残っているから。欧米の権利者が保護期間延長に熱心な理由はここにもある。しかし、「ドラキュラ」やディズニー映画を例に挙げるまでもなく、当の人気作にも先行する既存作品に基づいたものは少なくない。しかも当時、著作権の保護は今よりおよそ四〇年以上も短かったのだ。かつてパブリックドメインの恩恵を受けて多くの人気作が生みだされた。今、それらの作品がパブリックドメイン入りを拒否している。この構図はやはりおかしくないだろうか。
保護期間の延長と聞くと直感的に、「権利だから長いに越したことはない」と思う表現者は多いかもしれない。しかし、大切な問題だから我々は冷静に考える必要がある。すでに生前全期間と死後五〇年は守られているのである。現役のクリエイターの活動にとっては、古い作品の保護が長いことは制約にしかならないはずだ。果たして、保護期間延長を繰り返すことはクリエイターの得になるのだろうか。
「親殺し」の汚名を着せないために
クリエイターにとって一番大切なこと、命と呼ぶべきものは何だろうか。それは著作権ではない。おもしろい作品、人の胸を打つ傑作を生みだすことである。作品だけが、クリエイターに永遠の命を与えるのだ。「知的財産」といい著作権の保護期間といっても、素晴らしい作品が生まれなければほとんど意味はない。
精魂を傾けて作品を産みだす。そこに人々がアクセスでき、クリエイターの正当な利益が守られること。著作権の存在理由は、この創作とアクセスをバランスよく支える一点にある。保護期間を死後七〇年にまで延長しても、現役クリエイターにとってはかえって負担が増えたり、没後は忘れ去られた死蔵作品を増やすだけにならないだろうか。
クリエイターの保護について言えば、死後どころか彼らの存命中でも、純然たる海賊行為が国内外でまだまだ多い。作品が大量に流通しているのに、それを生みだした表現者や製作者に十分な見返りがない状況は、やはりおかしい。創作の保護をいうなら、こうした点への対応こそ大切だろう。
「欧米が七〇年への延長を決めた以上それに従うことが国際協調だ」という意見がある。しかし、ほとんど特定国の国益のためだけに発せられた要求に無条件で従うことが国際協調であるとは筆者には思えない。本当の国際協調のために我々に一層求められることは、利害の異なる相手と腰をすえてじっくり交渉できる力ではなかろうか。
著作権は、ひとびとの文化の営みの中から生まれてきた「新しい権利」である。それは、クリエイターを支え、豊かな文化を支えるために人類が考案した中で、今のところもっとも有望な仕組みだ。使い方を間違えて、「著作権は文化を殺す」などと言わせてはいけない。著作権に「親殺し」の汚名を着せないため、今こそ知恵を絞りたい。
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