著作権保護期間の延長問題を考えるフォーラム - thinkcopyright.org


転載記事

著作権保護期間の延長問題 創作者にはむしろ制約/欧米と異なる「日本モデル」必要

媒体:朝日新聞2005年9月15日夕刊
著者:福井健策(弁護士・ニューヨーク州弁護士)

 

 著作権をはじめとして知的財産権が話題にのぼることが増えている。こうした知的財産権には保護の期間がそれぞれあって、著作権でいえばわが国では著作者の死後50年間が原則だ。それが過ぎれば著作権は消滅し、作品はだれでも自由に利用できるようになる。世界最初の著作権法といわれるイギリス「アン女王法」の誕生当時、保護期間は作品の発行からわずか14〜28年間だった。国によってばらつきはあるが、著作権の保護期間はそれから次第に延長を繰り返され、90年代には日本をのぞく欧米先進国は軒並み死後70年時代に突入した。仮に30歳で作品を創作した作家が80歳で死去したならば、生前50年に死後70年を加えて120年間の保護。一般的な特許の存続期間の6倍にあたる。日本でも著作権の保護期間を欧米並みに再延長するか否かが、文化審議会で今後の検討課題とされている。これは私たちの文化のゆくえを考える上で、非常に重大な選択だ。

長すぎれば文化は停滞

 欧米では20世紀前半までの小説・音楽・絵画に世界的な人気作が多い。よって彼らの期間延長には「自国産業保護=国益」の色彩も強い。にもかかわらず、アメリカでは保護期間を死後70年間に延長する際に強い反対運動が起こり、憲法訴訟にまで発展した。なぜか。

 期間延長に反対する人々が懸念するのは、保護期間が長すぎれば新たな作品の創作が不自由になりかえって文化活動を停滞させる、ということである。古今の作品を下敷きにして傑作を生み出したシェイクスピアやピカソ、人形浄瑠璃から移植された歌舞伎の「丸本物」を例に挙げるまでもなく、多くの創作活動は既存の作品を創作の源泉としている。例えば悲劇の最高傑作といわれる「リア王」には、ほとんど同時代に「レア王とその三人娘、ゴネリル、レーガン、コーデラの実録年代記」という「種本」が存在していた。仮にシェイクスピアの時代に著作権が死後70年間守られていたら、彼の傑作の大半は存在しなかったとさえいわれる。

 作品に対するユーザーのアクセスという点も無視できない。集中管理された音楽などを除けば、作者の死後50年も経ってしまうと、作品の権利が多くの相続人に分散していたり、だれがどう管理しているか曖昧になってしまうケースも多い。例えば、埋もれた作品を発掘してオンライン出版しようという企画があったとする。しかし、今述べたような理由で権利者の許可をとれず、結局企画は見送られる可能性がかなり高い。これは社会の損失である。

 無論、苦労の末に作品を生み出したクリエイターの側からすれば、作品は生活を支える糧である。海賊版業者から作品を自由にコピーされ、ユーザーにそれを無料で使われていては生きていけない。その意味で、著作権にはすぐれた作品の創作を支える重要な存在意義がある。そもそも、自分の分身たる作品を勝手に使われないことはクリエイターが本来持つ当然の権利だという意見もあろう。

生前の活動を支えず

 いずれの立場に立っても、クリエイターの側から見れば保護期間は長ければ長いほどいいように思えるかもしれないが、必ずしもそうではない。すでに著作権はクリエイターの生前全期間とその死後50年間守られているのである。権利の保護が死後70年に伸びたからといって、それは受益者がクリエイターの「孫の代」から「曾孫の代」に拡大する、という意味しかなく、生前のクリエイターの創作活動を支える意味はおそらくあまりない。むしろ、クリエイターの創作活動にとってはさまざまな既存の言葉・メロディ・イメージなどを自作の中に取り込んだり、古典的作品を下敷きにした作品を作ることが不自由になる。死後の保護期間延長は生前のクリエイターにとってはむしろ制約的に働くともいえよう。いったいどちらが、クリエイターにとって本質的な問題だろうか。死後50年以上先のことを考えるよりも、現に生きているクリエイターの権利保護を充実させたり、創作環境を整えることの方が大切ではなかろうか。

 「より広く、より長く権利が守られさえすれば先進的」という発想はもう古い。「欧米並み」でなければ遅れをとるという考え方も少々情けない。クリエイターの正当な権利が尊重され、かつ人々の作品へのアクセスとのバランスが図られて、豊かで多様な文化が息づく国。それこそが世界最先端の著作権立国である。著作権のあり方をめぐる活発な議論を通じて、世界に向けて「日本モデル」を示すべきである。

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