Abstract
著作権保護期間の延長を主張する側の主張の根拠は、創作者の遺族の幸福と安寧であった。
そこで本論は、著作権保護期間の長短よりも先んじて解決せねばならない、より直接に創作者本人、家族そして遺族の利益にかかわる諸問題について論じ、改善策を提案する。
ただし著者は、それら改善策が実現されるべきことを主張するのではなく、さらに考察をすすめ、本質的な創作者の利益が自由な創作活動の保障にあることを指摘する。そして、情報時代においてその自由を保障する手段について提案する。
1 はじめに
先日、「著作権保護期間の延長問題を考える国民会議*1」の第一回シンポジウムが開かれたそうです。そこには、保護期間の延長について賛成している皆さんや反対している皆さんが多数あつまり*2、保護期間の延長の是非について激しく討論したようです*3。その様子は、さまざまなオンライン・メディアで紹介されましたから、ご存知の方も多いでしょう*4。表立って参加者として名前が出ていない個人や団体の方も多数出席していたらしい旨、参加していた茶会員*5から聞いております。この問題への関心の高さがうかがわれます。
私は、保護期間の延長について、それが知的財産戦略という観点からみて矛盾のある害の多い誤った方針であることを指摘しています*6。しかし、保護期間の延長を訴える著作者あるいは著作権者のみなさんの主張を拝見しますと、彼らが創作者さらにそのご家族やご遺族の幸福と安寧について、並々ならぬ関心をお持ちであることがよくわかります*7。私もまた講義と文筆で生計を立てる身ですから、そうした延長賛成派の皆さんの気持ちも分からないわけではありません。いや、それ以上に私は、情報時代において知識労働*8に携わる人の数が増えていく中で、知識労働者としての「創作者本人の権利」は、よりいっそう確実にされなければならないことを強く認識しています。私が一貫して疑問を感じているのは、著作権の保護機関の延長が果たして創作者本人とそのご家族やご遺族の幸福につながるのかどうかという点です。
前述のように、私は延長反対の立場にあるので、私の愛する諸作品を描かれた先生方と対立する立場になっています。これはとても残念で悲しいことであります。延長反対派である私も、延長賛成派の皆さんも、創作者とその家族の幸福と安寧を一心に願っている点では変わりありません。そこで、本論では『ほんとうの創作者利益について』と題して、賛成派の皆さんが「短い」と批判される保護期間の問題よりも、もっと大事で急がなければならない創作者=知識労働者の権利保障の問題について取り上げ、そうした問題の改善について、延長賛成派のみなさんと共に取り組んでいきたいと考えています。創作者とそのご家族やご遺族の安寧と幸福のために、これほど積極的である延長賛成派の皆さんなら、きっと私の提案に賛成していただけるものと確信しております。
創作者本人とその家族の幸福があってこそ、その子孫の幸福が保障されることはいうまでもなく、何よりも創作者本人がまず幸せであり、憂いのない生活が保障されてこそ、彼の創作活動が活発になることは容易に想像できることです。それは、創作者本人の死後50年たった後、あるいは70年たった後の子孫が幸福か否かよりも、遥かに直接的な条件であることは間違いありません。では、現状の創作者たちは幸福でしょうか?
著作権制度がもともと「出版者の権利」として始まったことを理由として、また、著作権制度の発展がもっぱらメディア企業のビジネスの都合に先導されてきたことを理由として*9、意外なことに著作権法は創作者本人を十分に保護していません。本論では、その保護の不十分な点を1. 著作権法の欠陥あるいは矛盾、2. 創作者を不利に取り扱う「業界慣行」の二点から取り上げることにします。
2 創作者から作品を奪う条文
2.1 「著作権=所有権」論の論理的帰結
保護期間を延長すべきだという主張の根拠には、様々なものがあるようです*10。中には「よその国が延ばすから、うちも!うちも!!」という安直なものもあるようですが、比較的伝統的に唱えられてきた根拠としては、いわゆる「ジョン・ロック流の所有権理論*11」を引用するものがあります。その要旨は、以下のようなものです。
「何人も自己の一身(person) については所有権(property)を持っている。これに関しては、彼以外にだれ一人としてなんらの権利を持たない」そして自分自身の労働(labour)、手の働き(work of his hands)は、彼のものであるとする。人間は「自分自身の一身およびその活動すなわち労働の所有者であるが故に、依然として自分自身のうちに所有権の大きな基礎を持っていた」のである。「そうして彼自身のものである何物かをそれに付け加えたのであって、このようにしてそれは彼の所有となるのである」という部分は人格権説の最も有力な論拠となるだろう。そしてそれによって「他の人々の共有の権利を排斥する何物かがそれに附加されたのである」。*12
この理論に立つならば、創作物は何よりもまず第一の所有権の対象であり、しかもそれは純粋な意味での所有権の対象であることになります。それゆえ、一般の所有権が永久不滅の権利であるならば、より純粋な知的財産権が法律の効果のために一定の期間で消滅することは、本来存在していた権利が「奪われている」ということになります。ですから、この立場をとる論者にとっては、著作権保護期間が延びれば延びるほど、より「あるべき状態」に近づくことになるわけです。ただし、私はこうした理論が、著作権制度発展に影響与えたものの制度の実態を反映しない理想論であることを、研究の結果明らかにしています。*13
さて、このジョン・ロック流の所有権理論に立つならば、いかなる理由があろうとも、ある作品について権利を取得する人は、知的労働を行った創作者本人であり、仮に法律の規定によって権利が移転するとしても、著作権はまずもって創作者本人に発生すべきことになります。ところがロック自身は、使用人の労働によっても所有物を取得しうるとしています。貴族と親しかったロックの思考体系では、労働を根拠とする彼の所有権理論と、使用人の労働の果実が主人の所有物であるとする彼の主張の理論上の矛盾は、気にならなかったようです。*14
2.2 著作権法に存在する矛盾
我が国の著作権法においては、二つの場合について、知的労働を行った創作者本人ではなく、その雇用者あるいは制作指揮者に権利が発生することになっています。それは、雇用関係の下における職務著作の場合*15と、映画の著作物の制作に関わる場合です*16。現在のように、創作活動が企業活動として組織的に行われている時代では、職務著作に該当する場面は飛躍的に拡大しているでしょう。また、「映画の著作物」とは、動画と音声が結合した映画のような視聴覚作品を指すということになっていますので*17、コンピュータの支援によって容易に視聴覚作品を作り出せる現在においては、映画の著作物の制作に関わる創作者の数もまた飛躍的に拡大しているでしょう。ですから、それら二つの場合が無視しうるほど特殊な場面であるということはできませんし、それらの業態に携わる創作者の立場からみれば、ほとんどすべての権利が他人に帰属してしまうことになるわけですから、死活問題だとも言えるでしょう。
これら二つの場合では、保護期間が短いとか長いとかの問題ではなく、そもそも創作者の権利が初めから奪われているのですから、由々しき問題であることは明らかです。このような制度を今もって残しているならば、創作者のインセンティヴを著しく低下させ(場合によっては零になりますね)、創作者の経済的利益を奪い、生活を脅かすわけですから、当然に創作者のご家族やご遺族の利益もまた奪われてしまうことになります。
2.3 「著作権=所有権」論の論理的義務
さらに言えば、(私は与しませんが)著作権が所有権と同様の権利であるべきだとする立場や、(私は与しませんが)著作権が人権であるべきだとする立場にある論者ならば、創作者の所有権や人権を剥奪する内容である著作権法第15条、第16条、第29条は、憲法違反の規定であることになるでしょう。仮に、憲法上の権利が「公共の福祉*18」や権利の「内在的制約*19」によって制限されるとする説に立つとしても、では、いかなる「公共の福祉」や権利の「内在的制約」によって創作者の所有権あるいは人権が制限されているのか、立法者は説明しなければならないことになるはずです。しかし、私は単に「企業内部で創作がなされる場合、複数人による共同作業がなされるのが通常であり、それぞれの従業員が、どの程度どのような関与をするのか多様である。そこで、それぞれの従業員の関与や貢献について細々と確認していくことは、共同作業の実態に合わない」という、あまり説得力のない理由しかみたことがありません。雇用関係のもとでの創作であっても、従業員個人の独立した知識労働の成果として成立しているものが多数存在していることは事実なのですから、一般的に権利を奪ってよい根拠にはなりません*20。
著作権について語る法律実務者の皆さんの中には、著作物の使用の場面のいちいちについて、契約で権利処理を行うべきであるとの主張があるようです*21。たくさんの人々の手許で行われる「著作物の使用」という、現実的には権利者の支配が極めて及びにくい場面のいちいちについて、契約で対応する法的あるいは技術的な手段があるのならば、創作者本人のもとに権利が完全な状態で帰属している場面において、雇用者あるいは制作指揮者が権利交渉できないほど煩雑であるという主張は説得力がないと考えます。複雑な契約を処理する法的あるいは技術的な手段は、まずもって創作者本人の権利保障のために用いることが、知的財産立国のあるべき方針であると私は考えます。
ですから、私が考えるに延長賛成派のみなさんは、まずもって著作権法第15条、第16条、第29条を、創作者本人に有利になるよう改正することを政府に要望し、創作者本人に権利が発生することを確実にした後に、保護期間の延長を主張するべきだと思うのです。そうでなければ、保護期間の延長問題において、私たちが擁護し支援したい創作者本人の利益が延長されるのではなく、そうした創作者本人から権利を奪い著作者に成りすましている人たちや組織の利益を増してしまうことになります。
3 創作者に不利な慣行
つづいて、とくに歳若い創作者の創作環境と生活について検討したいと思います。青年から壮年の創作者の皆さんには、扶養の必要がある配偶者やお子さんを抱えた方も多いことでしょう。そうした創作者の皆さんには、身に迫る必要として経済的利益が重要であることは間違いありません。大きなメディア企業は大規模な経済単位を持っていますので、小さな経済単位で生活している私たちよりも、遥かに大きな交渉上の余裕があります。すなわち、著作権の譲渡や使用許諾条件について交渉する場合、メディア企業はじっくりと交渉を引き伸ばすことができますが、創作者本人はごく短期間で生活に困窮してしまうことになります。それゆえ、両者が法律上対等な立場で交渉するならば、創作者本人は経済的な余裕の格差によって、結果的に不利な契約条件を呑まざる得なくなります。
仮に創作者が著名で、メディア企業に大きな利益を与える可能性が高い人である場合、創作者の交渉上の有利さは増大します。誰もがその名を知るような創作者の場合は、メディア企業との交渉において、かなりのワガママを通すことも可能かもしれません。しかし、創作者が著名であるためには、通常の場合、長年の創作活動を通じて実績を積まなければならず、その段階までには彼には経済的な蓄積もあるでしょうし、お子様たちが成人され独立されるなどして、扶養すべき家族の数が減少していることも考えられます。すなわち、創作者たちの経済状況は、歳若い段階において極めて不利な状況に置かれ、彼らが成熟し老年に達する頃、極めて少数の創作者のみがようやく有利な状況に至るということがいえるでしょう。
現実について語れば、若い駆け出しの創作者は、作品や原稿を僅かな代価と引き換えに売り払うことを余儀なくされていることが広く知られています。また、そうした弱い立場にある創作者が、著作権法に列挙されている諸権利を行使しようとするならば、仕事を干されたり、業界から排除されてしまう危険に直面することもまた良く知られています。こんな現状を放置しておきながら、政府が知的財産立国を語るなどというのは真に滑稽です。また、著作者の権利保護を推進している組織の皆さんであれば、そうした不条理かつ理不尽な業界慣行の撲滅に邁進しているはずです。法律家であれば、経済的格差が契約内容を左右しないように、実質的中立性を確保しうる規定を著作権法に導入するよう努力するはずです。
3.1 権利の復帰制度の導入
この件についての私の提案は、著作権について「復帰」の規定を導入することです*22。すなわち、著作権に関する契約は、期間の定めのない契約あるいはχ年を超える長期契約のχ年を越える部分を無効とし、χ年毎にすべての権利が創作者本人に復帰するものとします。すなわち、契約の相手方がさらに継続して著作権の譲渡なり使用許諾なりを得ようとする場合には、改めて創作者本人と契約交渉をしなければなりません。こうすることで、駆け出しのころに不利な条件で結んだ契約をχ年毎に見直すことが可能になりますので、創作者本人が次第に著名になり交渉力が増加していれば、より有利に契約を結びなおすことができます。逆に、χ年経った段階でその作品がすでに市場価値を失っているならば、著作権は完全な状態で創作者本人に復帰することになります。それゆえ、権利状態が不明になってしまった作品があったとしても、χ年以内には確実に創作者本人が完全な権利者であることになりますから、交渉相手が特定できないという事態は発生しないことになります。
さらに、創作者の遺族の幸福を確実なものとするために、創作者本人が死亡した場合にも、すべての権利が民法に規定された相続人に復帰するものとします。具体的な権利の継承については、遺族である相続人の間での遺産相続交渉で決定していただくものとします*23。契約の相手方がさらに継続して著作権の譲渡なり使用許諾なりを得ようとする場合には、改めて創作者の相続人たちと契約交渉をしなければなりません。こうすることで、保護期間延長派のみなさんが心配する配偶者や子の経済的保障が確実なものになります。保護期間の延長が、必ずしも遺族の利益にならないのではないか、という反対派の疑念を払拭することができます。私は保護期間延長を主張されている諸団体のみなさんが、この提案を歓迎してくださるものと確信しています。
3.2 最低印税率制度の導入
また、印税*24に関する業界慣行があります。例として出版物の印税率は、書籍の場合ほぼ定価の10%に固定されており、ごく著名な作家のみが交渉を通じてそれ以上の印税率を獲得しているようです。商業的に困難な学術出版に至っては、印税を受け取るなど夢のまた夢。逆に著作者本人が自費を充てるか、いずこかの学術団体の補助金を探してこなければいけないようなありさまです。商業音楽の場合は、作詞・作曲者(すなわち音楽出版社)がうけとる印税率は、CDの定価の約6%でほぼ固定されているようです。また、実演家(すなわちアーティストの所属事務所)がうけとる印税率は、CDの定価の約1%でほぼ固定されているようです。商業音楽の印税率は、それぞれの創作者の実績によってかなり差があるといわれています*25。自分の死後50年後から70年後までに獲得するかもしれない利益について心配するよりも*26、印税率が1%でも増加する方が、よほど創作活動へのインセンティヴとして有効に作用するはずです。
この件についての私の提案は、著作権法において印税率の下限を設定し、違反した契約の無効を規定し、違反者には刑事罰を課すというものです。この案においては、印税率の下限を設定することにより、商業的に困難な学術出版が減少する副作用がありますが、平田オリザさんが指摘されたように、著作権保護期間の延長から生じる追加的利益の一部を、こうした学術出版あるいは文化的事業への補助金として充てるならば*27、印税率の上昇に伴う出版数の減少を補うことができるでしょうから、著作権保護期間の延長もまた受け入れやすい提案となることでしょう。私は保護期間延長を主張されている諸団体のみなさんが、この提案を歓迎してくださるものと確信しています。
3.3 出荷数・流通数の統計資料の整備
また、印税支払いの基準となるのは、著作物の複製物の出荷数です。ということは、自分の作品が何部複製されて出荷されているのかを創作者が知る必要があるはずです。昭和50年頃までは、本の奥付に著者本人が「検印」を捺すことで、創作者本人の知らないところで書籍が印刷され流通することを防ぐことができましたから、創作者は自分の作品の複製物が何部作られているのかを確実に知ることができました。ところが、検印を捺す慣習がなくなってしまったのにもかかわらず、出荷数を客観的に把握するような書類あるいはデータを受け取る制度がありません。これでは、印税の計算根拠となる複製物の数を、いくらでもごまかせてしまいます。
この件についての私の提案は、著作権法において著作物の複製物の流通に携わる業種、出版社、中間流通業者、権利管理団体の諸団体に、複製物の出荷流通数に関する統計資料を整備し公表することを義務付ける規定です。もちろん、虚偽の統計資料を作成した主体には刑事罰を課すものとします。そうした虚偽の値をもって印税額を少なく偽装することは、詐欺さらには横領に該当することになりますから。それぞれの流通の各段階で統計資料が作成されるならば、どこか一つの主体が虚偽の値を盛り込んだとしても、たちどころに矛盾が発見されることでしょう。さらに、こうした統計資料が整備されることで、その信頼性が論議の的となりがちな各種の「ランキング」の信頼性も飛躍的に増大するに違いありません。そもそも、知的財産立国を目指すわが国において、創作物の複製物の出荷数に関する公的な信頼性のある統計資料が存在しないこと自体が奇妙なことです。
「企業の社会的責任」が唱道され、株主に対する財務諸表の整備が要求され、法令遵守(コンプライアンス)が企業に要求されている昨今、創作者さらにそのご家族やご遺族の幸福と安寧を願う、出版、流通、管理団体の皆様は、きっと私の提案に賛成してくださるものと思います。もとより商法や会社法等の法令に基づいて企業活動を行っている皆さまが、なによりもご心配されている創作者の利益に結び付く資料をお持ちでないはずがありません。
著作権について語る法律実務者の皆さんの中には、著作物の使用の場面のいちいちについて、契約で権利処理を行うべきであるとの主張があるようです。たくさんの人々の手許で行われる「著作物の使用」という、現実的には権利者の支配が極めて及びにくい場面のいちいちについて、契約で対応する法的あるいは技術的な手段があるのならば、たかだかχ年毎に著作権譲渡あるいは使用許諾交渉契約を繰り返す手間が負担であるという主張は、説得力がないと考えます。また、創作者の現在の経済状態に直結する印税の支払い計算という重要な場面において、出版社、中間流通業者、権利管理団体が詳細な統計資料を作成公表できないという主張もまた、説得力がないと考えます。複雑な契約を処理する法的あるいは技術的な手段は、まずもって創作者本人の権利保障のために用いることが、知的財産立国のあるべき方針であると私は考えます。
私自身は、上記のような創作者本人の権利保障を確実なものとする規定を著作権法に導入することの合理性には、いささかの疑問を持っています。ですが、なんにしても延長賛成派のみなさんが、創作者とそのご家族やご遺族の幸福と安寧について強い関心をお持ちなわけですから、保護期間を延長するよりも先に上記のような案の実現を政府に働きかけたらいかがですか、と提案させていただきました。
3.4 創作者が不利な立場に甘んじる理由
私がなぜ上記のような提案について疑問を持っているのか説明します。しばしば業界の関係者から伺う話として、メディア企業の経済状態も決して磐石なものではないというものがあります。何十という作品を出版(リリース)して、採算点を超えて利益をもたらす作品は一つ二つ。その一つ二つの成功作品から得られた収益でもって、その他の失敗した作品の損失を埋め合わせているのだという話をよく聞きます。事実、私の知る複数の出版社においても、私を銀座のクラブで豪遊させてくれそうな羽振りのよさを感じさせるところはありません。いえ、むしろ彼らからは、必ずしも磐石でない経営状態の中、可能な限り優れた作品を世の中に送り出そうと精一杯の努力をしている様子が伝わってきます。
そういう出版社の皆さんの努力を肌で感じていますと、「いや、印税なんていいんですよ。その分、素晴らしい作品たちをもっとたくさん世の中に送り出してください。」と言いたい気持ち*だけ*にはなりますが、しっかりと印税を頂いています。私だって、ゴハンを食べなければ生きていけませんし、コスプレの衣装や小道具にもお金がかかっているのです*28。
さて、上記のようなメディア企業の経営の様子を前提にしますと、あることに気がつきます。すなわち、メディア企業の経営者というプロフェッショナルにとっても、いずれの作品がヒットするのかを予測することは極めて困難であるという事実です。ということは、知的財産権に関する議論にしばしば見られる「報酬が与えられることで、創作者はよりいっそう優れた作品を生み出すのだ」とか「より多くの制作費を投入することで、より優れた作品が生み出されるのだ」というような主張は、実態を反映しない空論であることになります。私がこの論説に先行する論説『ほんとうの知的財産戦略について*29』の4.3節『情報や知識の生産は確率的なものである』で展開した議論を、メディア企業の皆さまはすでに受け入れてくださっていることを示しています。
そうであるならば、私が『ほんとうの知的財産戦略について』で展開したように、よりたくさんの人々が創作活動に着手し、より多様な作品が生み出されることが、より優れた作品を生み出す基礎条件であることもまた、メディア企業の皆さまは受け入れてくださるものと思います。そうであるからこそ、「うーん…この作品って採算取れるかな…でも、まあ、出版してみるか…」と高危険(ハイリスク)な事業計画に着手してくださっているのだ、と私は理解しますし、そうすることで、より多くの創作者に対して自らの作品を世に問う機会(チャンス)を与えてくださっているのだと考えます。
ここで、私達創作者が、なぜメディア企業の理不尽な対応に甘んじているかが浮かび上がってきます。すなわち私達創作者は、著作権を振りかざして自らの個人的な経済的利益を確保するよりも、より高危険な事業計画を選択しうる経済的余裕をメディア企業へ譲ることで、自らの作品を世に問う可能性をより大きなものとすることに加え、より多くの他の創作者達が、彼らの作品を世に問う可能性をより大きなものとすることを選択しているわけです。なんと兄弟愛に満ちた美しい自己犠牲精神なのでしょう。…などと、複雑なことを考えなくても、単純に考えてみれば、創作者は自らの作品を誰かに伝達するために創作したのであり、基本的にその作品がより多くの人の手に届き、評価され、愛されることを最大の利益とするものだと考えます。
ですから、私が前節で展開したような、創作者の権利や利益をかなりの程度強化していくような提案は、メディア企業の負担を増加させ、事業計画をより慎重なものにさせてしまい、出版事業計画を現在よりも少ない方向に変化させる可能性があります。それゆえ、前節での諸提案は、必ずしも全体的な創作者集団の利益にはならないと考えているのです。
4 ほんとうの創作者の利益とは
前節の検討により、ほんとうの創作者の利益とは、より少ない費用(コスト)によって創作活動を遂行でき、様々な作品を生み出し、それをより少ない費用によって世に問うことができること。そしてその作品が世に受け入れられたなら、それに相応しい社会的評価と経済的報酬を受けられることであるとわかりました。
してみますと、創作者本人が亡くなった後50年後やら70年後やらの、あるやらないやらアヤフヤな利益について、延長賛成派と延長反対派が少なからぬ時間と費用をもって議論を続けていることは、創作者の利益を守るために何ら貢献していないことがわかります。いまこそ、延長賛成派と延長反対派が手に手を携えて、創作者の利益のために力強く前進すべき時であることを訴えたいのです。また、知的財産立国を目指す日本国政府は、快くこの提案を受け入れてくれるに違いありません。
さて、ほんとうの創作者の利益について考えるとき、成功した過去の創作活動から上がってくるお金で生活している成功した著作者や、その人たちと供に活動している人たちに、さらによりたくさんのお金を与えることも、彼らの創作へのインセンティヴをいくらか増すかもしれません。あるいは、文化振興育成やコンテンツ産業振興を目的として、存在意義のいささか不明瞭な組織を設立して、そこに助成金や補助金を与えることで、それらのお金のささやかな部分が創作者の活動を支えるお金として使われるかもしれません。しかし、物事を計画するにあたっては「費用対効果」を考えなければなりません。創作者の利益を増すための施策において、創作活動をしていない人たちばかりが潤うのでは本末転倒です。
4.1 明瞭な創作者支援方法
そこで、もっとも明瞭な支援方法について、提案したいと思います。作品ができあがった後によりたくさんのご褒美をあげて、次の仕事の励みとさせるよりも、創作活動をしている人たち、また創作活動に着手しようとしている人たち、それら全ての創作者たちが創作活動おいて避けて通れない障害をできる限り小さくすることが、より直接に創作活動を活性化することになります。しかも、この方法は、障害を取り除く方向で検討するのですから、存在意義不明の中間的な組織が関与する危険がより少なくなります。
この節の冒頭で指摘しましたように、まず創作に必要な道具や素材や材料の価格を安く、さらに入手の便宜をはかり容易に入手できるように維持することが大事になります*30。しかし、私には、さまざまな商品の価格を適切な水準に維持し、全国の市場に適切に配分するための経済学的手法についての知識に欠けるので、この点については、どなたか適切な識者の提案を待ちたいと思います。
多様な作品を生み出すのは、人間です。それゆえ、多様かつ十分な知識や教養を身につけうる適切な教育こそが知的財産立国の最重要点となります。この観点からみれば、無意味な暗記中心の受験教育のみが教育であるかように誤解されている現在の教育制度は、百害あって一利なしであると断言できましょう。しかし、私には、知的財産立国を支えていく創造性に溢れた若者を養成するための教育学的手法についての知識に欠けるので、この点については、どなたか適切な識者の提案を待ちたいと思います。
ただ、私は、全国の図書館、博物館、美術館が立派に維持できるように経済的な手当てをすること、またそうした文化施設がなにかエラソーな伝統芸術ばかりではなく、若者達の心をひきつける新しい種類の芸術に対しても開かれたものであるように運用上の手当てをすることを願っております。そうした手当てのために、今般の著作権保護期間延長によって生じる利益が*全額*充てられるのであれば、私は保護期間の延長にはそれなりの意味があると考えます*31。
創作者が何よりも困難を感じているのは、自ら生み出した作品を世に問う段階であることは、前節での記述から理解していただけるでしょう。そうなると、先の図書館、博物館、美術館等の文化施設に加えて、市民ホールや文化会館等の公共の講演・展示施設を、歳若い創作者たちが容易に使用できるな施策が必要になるでしょう。また、各種の公正なコンペティションが、もっとたくさん開かれるように手当てすべきでしょう。また、メディア企業が健全な状態で活動できるような経済環境を注意深く整備する必要があると考えます。
さらに、作品を世に問うとき、自らの表現を恣意的に排除されない保障もまた重要になります。世の中に強い影響を与える作品というものは、往々にしてその時代の穏健な見解や常識に挑戦するものであります。現在、時代を変革した芸術作品として美術史に残っている作品の大部分は、発表当時非難や酷評を浴びたものです。こうした視点に立ちますと、商業的な利益を無視し得ないメディア企業の善意や良識のみに期待することはできない、ということがわかります。たとえば、特定の芸能関係者を批判するような論説や記事が、芸能ジャーナリズムから排除されたり、再販売価格維持制度の撤廃を主張するような論説や記事が決して新聞に掲載されることがなかったり、といった事例があるやに聞いております。
4.2 インターネットを活用せよ
それゆえ、誰もが安価に中立かつ公正に使用することのできるメディアが存在することが、実は何よりも重要な創作者の利益であるといえるのです。私達は、すでにそうしたメディアを手に入れています。インターネットです。これまでのどのメディアよりも安価に、どのメディアよりも遠くまで広く自分の作品を広めていけるメディアです。しかも、インターネットは表現されている内容について関知しない*透明な*メディアです。ですから、市民ホールや文化会館への支援と同等あるいはそれ以上に、インターネットを誰にでも使いやすく開かれたメディアとするように、創作者の利益を擁護する人たちは努力するべきです。
しかし、インターネットには大きな欠点があります。それはメディア企業が作品から生じる経済的利益を創作者に幾許かでも還元してくれるのに対して、インターネットには作品から生じる経済的利益を創作者に還元する直接的な手段が存在しないことです。さまざまな技術的手段を組み合わせて、インターネットならではの対価徴収方法が工夫されているようですが、なかなかうまくいかないようです。そこで私は、公共的な主体による、インターネットにおける小額決済システムの開発とその運営こそが、ほんとうの創作者の利益に直結する知的財産戦略の要であると主張します。それは、道路網が近代産業の産業基盤として公共的主体によって整備されたように、知的財産によって国を支えていくことを決意したわが国において極めて重要な文化基盤そして産業基盤であると考えます*32。
創作者が自由であるためには、彼が経済面において心配しなくて良い状態が必要です。かつて芸術家は、王侯貴族の庇護のもとでのみ生きていけました。彼には庇護の下の自由しかありませんでした。つづいて芸術家は、メディア企業と手を携えて大衆の支持のもとで生きることになりました。彼には、集団としての大衆の支持がある限りでの自由が与えられました。さらにすすんで、表現の場として自由なインターネットが、経済的利益を創作者に還元しうる仕組みを備えたとき、創作者はよりいっそうの自由を獲得することができると私は考えます。そしてその自由は、当然に創作活動を活性化するはずです。
5 自由こそ我らの本質
私達のすべては、表現するものであり、また表現を愛し楽しむものです。もし、私達が一切のこの世のしがらみから開放されるならば、私達はより本質的かつ深遠な創造へと進んでいけるものと信じます。生きること、生活すること、金銭を手に入れることは私達をこの世へと縛りつける鎖です。創作者がそのご家族やご遺族の安寧と幸福を心配せねばならないこともまた鎖なのです。
ほんとうの創作者の利益とは「自由」に他ならず、創作者のための全ての施策は、この自由に結び付くように設計せねばなりません。思想の自由、言論表現の自由、知る権利、法の下の平等、経済的困窮からの自由、奴隷的使役からの自由、身体の自由…私達は、創作者が可能な限り自由であるようにどのような工夫ができるでしょうか。こうした観点からみるときに、創作者の死後50年後から70年後までの20年間の経済的利益の問題は、創作者本人の利益に何らかのかかわりを持ちうるのでしょうか。私には、この議論そのものが、もっと大きな問題から目を逸らすために仕組まれた罠であるようにも感じられます。
6 追論我らを憐れみたまえmiserere nobis
本論での私の主張は、私がもう10年ほどにわたってあちこちで語ってきた内容の焼き直しです。ですから、私の身近にいる皆さんには「また、この話か…」と思われた方もいるでしょう。実は、著作者団体、メディア企業、権利者団体の皆さんの中にも、物事がキチンと考えられる人には、本論で述べたことがちゃんとわかっている人が多数いることを私は知っています。しかし、彼らには守らなければならない既得権があります。その既得権から生じる利益があり、その利益が彼らの幸福と安寧を支えているのです。
私自身にしても、この論説でエラソーなことを書いておきながら、原稿料を受け取り、印税を受け取りながら暮らしているのです。もちろん主たる収入を法政大学から頂いているからこそ、まだ私は余裕をもって、誰の意向を憚ることなく自由にモノが書けるのです。ですから、何らかの圧力によって私が経済的に余裕を失い、お金と引き換えにモノを書かねばならなくなったとき、私はワンワンと尻尾を振りながら、私にお金を恵んでくれる人のために、どんな駄文でも虚偽でもホイホイ書き散らしてしまうに違いありません。願わくば、そんな日が来ないことを。
本論を書いたのは私ではなく、私の社会的経済的立場に他なりません。私のそれが失われるならば、それを継ぐ誰かがその立場に伴う義務を果たしますよう。
自由と真理の神がまだ在るならば、
弱き我らを憐れみたまえ。
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*2 http://thinkcopyright.org/list.html
*3 http://thinkcopyright.org/resume.html
*4 http://thinkcopyright.org/reference.html
*5 極私的かつ存在アヤフヤな勉強サークルのようなそうでないような陰謀組織であるロージナ茶会の参加者のことを「茶会員」と呼びます。
*6 白田秀彰, 著作権保護期間延長を擁護してみる, HotWired Japan, 白田秀彰, やっぱり著作権保護期間延長を批判する, HotWired Japan.
*7 http://thinkcopyright.org/reason.html
*8 これまで、創作活動をするのは「先生」と呼ばれるエラソーなオジサンたちであるという先入観があったので、そういう文化的に高級で立派な階級にある人たちが、よもや地べたに這いつくばって生活のために苦役する「労働者」などというような階級と同じはずはないという、とても階級意識にあふれた観念が主流だったわけです。ところが、情報化してしまった現代において、労働のかなりの部分は著作権法に規定されている「著作物」を生み出す作業、すなわち創作活動になっているのです。ですから、そうした頭脳による労働をここでは「知識労働」と名づけ、「労働」の一種として把握します。
*9 白田秀彰, 『コピーライトの史的展開』,(信山社, 1997).
*10 文化庁に提出された21団体からの要望一覧でも、あまり「様々」でありませんね。
*11 参照: 鵜飼信成, 『市民政府論』(岩波書店, 1968).
*12 白田秀彰, コピーライトの史的展開(7) |書籍業者の戦争(後編) および自然権論批判|, in 『一橋研究』Vol. 21, No. 3,pp.83-112.
*15 著作権法第15条
法人その他使用者(以下この条において「法人等」という。)の発意に基づきその法人等の業務に従事する者が職務上作成する著作物(プログラムの著作物を除く。)で、その法人等が自己の著作の名義の下に公表するものの著作者は、その作成の時における契約、勤務規則その他に別段の定めがない限り、その法人等とする。
二 法人等の発意に基づきその法人等の業務に従事する者が職務上作成するプログラムの著作物の著作者は、その作成の時における契約、勤務規則その他に別段の定めがない限り、その法人等とする。*16 著作権法第16条
映画の著作物の著作者は、その映画の著作物において翻案され、又は複製された小説、脚本、音楽その他の著作物の著作者を除き、制作、監督、演出、撮影、美術等を担当してその映画の著作物の全体的形成に創作的に寄与した者とする。ただし、前条(著者注 第15条)の規定の適用がある場合は、この限りでない。
第29条
映画の著作物(第15条第1項、次項又は第3項の規定の適用を受けるものを除く。)の著作権は、その著作者が映画製作者に対し当該映画の著作物の製作に参加することを約束しているときは、当該映画製作者に帰属する。
二 もつぱら放送事業者が放送のための技術的手段として製作する映画の著作物(第15条第1項の規定の適用を受けるものを除く。)の著作権のうち次に掲げる権利は、映画製作者としての当該放送事業者に帰属する。
1.その著作物を放送する権利及び放送されるその著作物を有線放送し、又は受信装置を用いて公に伝達する権利
2.その著作物を複製し、又はその複製物により放送事業者に頒布する権利
三 専ら有線放送事業者が有線放送のための技術的手段として製作する映画の著作物(第15条第1項の規定の適用を受けるものを除く。)の著作権のうち次に掲げる権利は、映画製作者としての当該有線放送事業者に帰属する。
1.その著作物を有線放送する権利及び有線放送されるその著作物を受信装置を用いて公に伝達する権利
2.その著作物を複製し、又はその複製物により有線放送事業者に頒布する権利*18 「公共の福祉」とは、一般的に「人権相互の矛盾衝突を調整するための実質的公平の原理」とされています。すなわち、「他者の人権」との調和を図るための調整を指すものです。ですから、人権とは無関係の社会公共の利益や国家的利益さらに当然ながら営利企業の経営上の都合などは、ここでいう「他者の人権」にはあたりません。
*19 人権として保障される権利は、同時にまた他人の同等の人権を保障しなければならないわけで、その同等の人権を保障するために限り、立法その他の方法によってその人権を制約することが可能であるという考え方。人権を制約する立法は、内在的制約に該当するもの限定されるというのが一般的な解釈。
*20 職務著作制度についてのきわめて詳細な研究として、潮海久雄, 『職務著作制度の基礎理論』, (東京大学出版会2005)があるようですが、未見です。おそらく、同書のもととなったであろう研究論文、潮海久雄, 著作権法における創作者主義の変遷過程―職務著作制度の分析を中心として―(1,2), 『法学協会雑誌』, Vol. 116, No. 12, Vol. 117, No.5までは読んでいます。
*21 具体的には失念しましたが、雑誌で「権利者の作品を使わせていただくのだから、使用者は、手続きの煩雑さをいとわず契約を結ぶことが当然なのだ」「こまごまと契約で決めていくことで知財の権利関係問題は解決するのだ」という趣旨の記事を読んだ記憶があります。近代法においては、「契約自由の原則」があり、当事者が自由に契約関係を作りうるのですから、それらの主張は、基本的には正論であろうと思います。また、大塚祐也, 技術と法によるコンテンツの保護in 『デジタルコンテンツと著作権制度』(著作権情報センター, 2005)でも、コンテンツ管理技術によって、著作権保護および著作物使用に伴う細かな個別課金が可能であるとし ています。
*22 著作権の復帰は、reversion あるいはrenewal term と呼ばれ、英米法系著作権制度において、その歴史のはじめである16世紀から18世紀末までしばしば認められてきた仕組みです。ここで提案している復帰制度は、それらと同一の仕組みではありませんが、一定期間後に創作者本人に権利が完全な形で戻るという点では同一です。
*23 著作者人格権(著作権法第5節)の権利については、著作権法第116条以下に、人格権を行使する遺族の順位等についての定めがあります。が、第116条3項において、遺言により遺族以外の人物に人格権の行使をゆだねることを認めています。この規定は、遺族の安寧と幸福を最大限重視する立場からすれば批判されるべきです。
*24 慣習的に「印税」といわれていますが、この言葉は法律用語ではありません。正しくは著作権使用料です。あくまでも著作権の使用への対価として支払われるべきものです。著作権の中心的権利が複製権であることを考えれば、たとえば複製物の製作数あるいは出荷数を前提に使用料は計算されるべきです。一部の業界で慣行として行われているように、複製物の売上数を計算の基礎とする ことは正当ではないと考えます。
*25 参考:http://gag56hge1.hp.infoseek.co.jp/sonota/cd-inzei.html, また、http://kuwa.pekori.to/mame/01.html
*26 白田秀彰, やっぱり著作権保護期間延長を批判する, HotWired Japanでは、その利益の現在価値を1円以下と推測しています
*27 平田オリザ氏発言要旨(→当日のシンポジウムの動画もご参照ください)「保護期間延長はコンテンツを保持する先進国の発展途上国への文化的収奪につながる。自分は作品をアジア・アフリカの若い役者達に演じてもらえたらうれしい。著作者が金じゃなくて創作者としての名誉が欲しいと言うのであれば、日本で20年延長された分の著作権料は遺族に渡さず、半分を国内の若いクリエーターの育成のために、残りの半分をユニセフなどに委託して発展途上国の文化発展促進に役立てたらどうかと提案したい。圧力をかけてくるアメリカの鼻もあかせて一石三鳥だ。
*28 http://orion.mt.tama.hosei.ac.jp/hideaki/proale.htm
*29 http://orion.mt.tama.hosei.ac.jp/hideaki/pdf/
trueheritage.pdf*30 私の生まれ育った田舎町には、小さな楽器店しかありませんでした。YMOの大ファンだった私があこがれていた、本格的なシンセサイザーが店頭に実際に置かれているのを見たのは、福岡で大学浪人していたときが最初でした。またこの町には、油絵の画材を扱っている専門店はありませんでした。文具屋の片隅にいくらかの水彩画やパステルの画材が置かれていただけでした。こうした環境では、音楽や絵画に意欲のある若者が創作活動に着手する障害(ハードル)は極めて大きいわけです。ちなみに、現在その町には、専門的な本が手に入る書店としては、大規模チェーン店一つだけになってしまったと聞いています。かように地方小都市の文化水準は危機に瀕しているのです。
*31 論理的には、創作者の死後の著作権保護から生じる利益を、ほんとうに創作活動へのインセンティヴとして用いるならば、その利益を全額上記のような文化施設の維持・運営のために用いる方が合理的であるとも私は考えます。なぜなら、創作者の遺族が必ずしも創作活動をしているわけではなく、そこに集中的にインセンティヴを与えても効果がない可能性が高いからです。一方、文化施設を利用する人たちは多数であり、それら多数に薄く広く配分されるインセンティブは、創作活動のサイクルを活性化することが確実だからです。
*32 私の個人的提案としては、高速ネットワークと、P2Pファイル共有技術と、小額決済機構が結合したコンテンツ配信システムを整備し、無償で開放することがもっとも効果的であると考えています。逆に、Digital Rights Management Technology (デジタル著作権管理技術)を利用して、使用者によるファイルの使用を制約したり、使用者の使用行為を監視・追跡したりといった、芸術や文化の制御と支配controlに貢献するようなシステムに反対します。その理由は、『ほんとうの知的財産戦略について』と本論以下の部分で説明している、議会制民主主義と自由市場経済を支える「情報の自由」を保障するためには、誰によるものであるとしても情報に対する支配能力が強化されることは危険だからです。
※ 2011/12/26 本文中に一部誤記がございました。訂正してお詫びいたします。
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